初めての劇団四季は残念な結果だったでござる
先週末、初めて劇団四季のミュージカルを体験してきました。
というか、ミュージカル自体はアメリカで一度体験している一方で、日本で見たのは初めてだったかも。
結論から言うと、ぼくの中では「期待値以下の残念なパフォーマンス」でした。
初めて見るのに対して、演目が失敗だったという話もありそうです。ぼくが見たのは「マンマ・ミーア!」でした。
この日は夕方からパフォーマンスを見たのですが、その前に大学院のクラブ活動で、演劇ビジネスを劇団四季のケースから学ぶという自主勉強会を行っていました。
ケースは一橋ビジネスレビュー/石倉洋子先生の執筆が出所で、先生のブログにもあるとおり、アートビジネスにおけるケーススタディとして秀逸だなあと思います。
劇団四季は、クリエイティブな業界における事業の戦略や組織、創業と戦略の進化という点で、学ぶ点が多い組織です。そこで、2003年の劇団四季の創立50周年の頃から、劇団四季の戦略や組織、その変遷をとりあげたビジネス・ケースを書いたのですが、(このケースは「一橋ビジネス・レビュー」に掲載され、その後もケース単体として、企業の研修プログラムなどでもよく使っています)劇団四季の歴史を振り返る中で、キャッツが劇団四季や日本のミュージカルの歴史にとって、どれだけ大きな意義を持ったか、画期的だったかを知ることとなりました。 私自身は日本でもニューヨークでもキャッツを見ていなかったので、当時公演をしていた仙台まで日帰りで見に行きました。その後、2004年11月から、東京でも再び上演されており、9月はじめに、東京での公演は1000回をこえ、まだロングラン中です。 キャッツを見るといつも痛感するのは、そのユニークさ、斬新さです。少なくとも私が知るミュージカルとは、猫の世界という基本的なコンセプト(T.S. Elliottの “Old Possum’s Book of Practical Cats”が原点)、ストーリー、セット、バレエ(ダンス)の多さなどから見ても、かなり違うと思います。
こうしたユニークなミュージカルを1981年にロンドンで上演したTim Rice(詞)とAndrew Lloyd Webber(曲)のすばらしさ、それを1983年に日本にもってこようとした浅利慶太氏をはじめとする劇団四季の先見性に感心します。またロングランを実現するため、仮設劇場を作ったり、電話による切符の販売など新しいインフラを整備したこと、初日に電話で膨大な数の切符が売れたという事実など、キャッツは日本の演劇界において画期的だったことを思い出しました。
Yoko Ishikura's Blog » Blog Archive » Cats, West Side Story
また、劇団四季の経営・演出を手がけてきた浅利慶太氏については、こちらの本が最も詳しいと思います。この1冊で演劇ビジネスのイノベーションの歴史が見て取れます。
そんなわけで、音楽ビジネスでどのように売り、ファンを増やすかという命題を突き付けられている今の自分にとって、劇団四季の事前予習はそれなりに勉強になったわけだったのです。
そして、机上の分析をそれなりに済ませ、事前期待値をムクムクと高めたうえで、「いざ実食」だったのですが、うーん、あんまりそのとおりになってないな~というのが実感でした。特に疑問符がついたのは、以下の2点。
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ミュージカルなのに歌がヤバすぎる
自分が音楽やってるだけに、一番気になってしまったのがコレ。特に演劇やダンスよりも音楽がメインのミュージカルであったにもかかわらず、主演格の方以外の歌がひどい。どうひどいかというと、
「音程ズレまくり」
主演の方もところどころ怪しかったです。そりゃないよ・・・。この時点でぼくは萎え、開始20分くらいで早くも時計が気になる始末。
さらに、
ポップスのミュージカルなのに、オペラ調のトーンはマッチしてない
な、なんか声楽っぽくそこ高らかに歌い上げるシーンじゃないでしょ・・・という場面がちらほら。まあ、演目によって声質変えろって言われても無理なことくらい承知なんですけど、客の立場としてはね・・・ここまでアンマッチングだと何も言えねえ。
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母音法の台詞読みがなんか気持ち悪い
演劇の世界ってほんと滑舌に気を使いますよね。ハッキリ言って、自分も歌うときの滑舌が悪いのは悩みです。呼吸がなってないのも自覚してます。
劇団四季が、独自の母音法で発声メソッドを確立したのは有名です。
劇団四季メソッド「美しい日本語の話し方」 (文春新書 924)
- 作者: 浅利慶太
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
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それにしても、このハッキリしすぎた発音が逆に耳にさわりすぎて、自分には逆効果に聴こえました。ぼくが演劇に慣れてなさすぎるからかな。
演技とかダンスについても、一緒に行った目の肥えた方々からは「キレがない」との声が聴かれましたが、ぼくはあんまりよく判らなかったです。
それ以外にも、自分が劇団四季そのものに向いてないと思われるポイントがいくつかありました。
- 舞台転換が行われている間に我に返って、都度覚める(実はドリフもそこだけ苦手)
- トイレ行列ができるから仕方ないのですが、真ん中の20分休憩でさらに覚める
- 笑い声が少ない。誰かがクレームしたのか、友人が休憩時間に笑い声について一言お願いされる場面に遭遇
- その割には、最後のカーテンコールでは大盛り上がりで、微妙な鑑賞ルールについていけず(プロ野球の外野席、Jリーグのゴール裏も同じかも)
- 結果、台詞を聴くというストーリーのディテールよりも、全体の雰囲気を自分は大事にするタイプなのかもと再認識
そういえば、台詞のないシルク・ドゥ・ソレイユは過去2回見たけど、また見たいと思ったし、ディズニーリゾートや外タレのコンサート・オペラは、ストーリーや言語がよく判らなくても問答無用で楽しめる非日常性がある。映画もどちらかというと勧善懲悪的なストーリーよりも、全体に空気感のある映画好きだったなあと思い直すのでした。
とは言え、カーテンコールでの観客とステージの一体感はすごいものがありました。なんだ、劇なしでこれだけずっとやってればもっと盛り上がるのに、と思ってしまうほどすごかった~。なんかこの雰囲気、女性がハマるのも感覚的に判る気がする~。彼女たちにとっては、四季で一体感を感じることこそが非日常性なんだろうなあ。
そんなわけで、熱狂的になることなく、最後まで冷静に分析してしまったイヤ~なヤツとなってしまったのでした。
もしかして、本国のメリル・ストリープ版のほうが理屈抜きで楽しめたりして・・・。いや、やっぱり最初に見る演目が違ってたかもね。